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Heavy Metal Noise [My guitar & band history]

Vol.03-本格的なバンド結成[イベント]

 

YKバンド


様々な人たちとバンド結成やセッションでスタジオに出入りする様になったが、全くスタジオに入らなかったバンドがあった。
それは奈良の天理に住んでいた久保と結成したフォークデュオだ。

ある時、フォークソングのコンテストみたいなのに応募した友人の応援に行った時に、サウスポーのギターを持った男が拓郎を歌っていた。
声も似ていたし、とても凄い存在感だったので、拓郎ファンの俺は彼をとても気に入り、声をかけたのが…久保との付き合いの始まり。
俺と久保は即意気投合し「一緒にやろう」という事になった。
練習は近所なので、お互いの家でやった。

ライブは久保の家の近くに大きな公園があり、そこに無人の多目的ステージがあったので、昼間良くそこで演奏してた。
散歩やピクニックなどの人が足を止めて聴いてくれた。
当時はエレアコなど持っていなかったので、モーリスのフォークギターで演奏した。
久保がサイド・ギターとリードボーカルを担当し、俺がリード・ギターとコーラスを担当していた。

また、この時期に、ドラマー田中、ギター石田、ヴォーカル森本でハードロックバンドを結成。
余りにも音が大きすぎて耳鳴りが取れなかった事から、バンド名を「Noise」と名付けた。
この時に、久保はフォークギターからベースに転向して参加。
このメンバーで郡山高専の文化祭に出演するも、自然消滅するが…他のバンドと違い、このバンドへ参加した事は後の活動に大きく影響する事になる。
俺と久保はその後もタッグを組んだが、ギターの石田とは別れて別の活動をすることになるが、後にBritish Steelで再会する。

Heavy Metal Noise(ヘビーメタル・ノイズ)

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仲間と趣味でコピーバンドをやることに不満は無かったが、同じ趣味でも本格的にやりたくなった。
やはりドラムは2バスでないとダメだし、本格的なハードロックのオリジナル曲をやりたかった。
人材という点で奈良県内に限界を感じた俺は、新バンド結成の為、ベースの久保を誘って大阪でメンバーを探すことにした。

阿倍野にアポロビルというのがあり、そこの地下に当時はメンバー募集掲示板があった。
多目的な募集掲示板で、バンド以外の仲間の募集も多く見かけた。
その中から岸和田に住んでいた2バス・ドラマーの森本と知り合う。
森本の凄まじいパワー・ドラミングに即意気投合し、大阪アメリカ村のスタジオを拠点に活動する事に決めた。

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結成間もない頃のH.M.N#1  左から俺(ギター/ボーカル)森本(ドラム)久保(ベース/ボーカル)

始めて俺がリーダとなったバンドで、「Heavy Metal Noise」(以下H.M.N#1)と名付け、リハーサルを開始した。

最初に結成した俺にとっての本格的なバンドは、トリオ編成で演奏するバンドとしてスタートした。
当時俺はエフェクターを多用するウィルリッヒ・ロートやフランク・マリノというジミー・ヘンドリックスのフォローワーに影響を受けていて、長々としたギターソロを手持ち無沙汰なボーカルの視線を気にせずに続けられるトリオというスタイルに拘った。
俺と久保はフォークバンドでギターを弾きながら歌うことには慣れていたので、ボーカルパートに特に問題は感じなかった。

この頃の俺はリッチー・ブラックモア100パーセント人間だったが、モノトーンな音質に飽きたのと、上手いkeyboardPlayerが居なかったのでつまらなくなっていた所、フランク・マリノ&マホガニー・ラッシュを聴いてブッ飛んだ!
七変化するギターの音色に「これは一体どうやっているんだ?」と驚いた…ちょっと何をどうやってあんな音が出るのか想像も付かなかった。

同時期にScorpionsの「Tokyo Tapes」という2枚組のライブアルバムを聴いて、これまた即KOされた!
様々な感情をメロディーだけでなく、サウンドでも表現する奏法は俺にはとても魅力的だった。
当時元気の良い若いHardRockバンドはUFO、スコーピオンズ、後はジューダス・プリースト位しかいなくて、街はパンク一色だった。
友達から「コレ聴いてみ」って借りたレコードがスコーピオンズのアルバムで、気に入ったので速攻で2枚組のライブ盤を買った。
ライナーを読むと、どうやら彼らはジミー・ヘンドリックスというギタリストに影響を受けているって書かれている。
ジミーは名前しか知らず、聴いた事が無かったので早速友達からジミーのレコード盤を借りて聴いたけど、こちらはフォローワー達と比べると速弾きとかが無く、歌、ギター共に古くさくて、バックの演奏も地味で野暮ったくて全然ピンと来なかった。
今思えば聴く順番が逆で、ドリーム・シアターを聴き込んでからクィーンズ・ライチを聴いた様なモノだ。

とにかくウィルリッヒ・ロートにドップリ浸かる毎日で、ひたすら彼らの「音作り」を研究した。
本屋で「エフェクター入門」とかいう本を買った。
「フェイザーはこういう音が出ます」ってサンプル演奏を録音した「ソノシート」が付いており、田舎モノで知識の無い俺にはとても判りやすく有り難かった。
世界の有名なミュージシャンが使っている有名なエフェクターも「誰々はこれを使っている!」とか書かれていて、欲しいのに赤ペンで丸印を付け、実際に購入すると×印を付けていった。
それまで俺が持っていたエフェクターはトレブルブースター/ファズの「ローランド・ビーバー」と「伴天連」のギタリスト桂が持っていた「フェイザー」で、彼が足下に置いた小さな箱を踏んづけると「ショワァ〜〜ン」って「音が変に格好良く」なった。

桂は他にもオーバードライブやディレイなんかも持っていて、買う順番って事なら間違いなくそっちからだと思うが、当時の俺は何故か楽器屋に飛び込んでフェイザーを買った。
来る日も来る日も俺のギターからはトミー・ボーリンの様に、ショワワァ〜ンって音が常時掛かっていた…が、直ぐに飽きてしまった。
 
まずウリ先生に近づく為に購入したのは、ダラズの「ファズフェイス」やRolandのテープエコー、ジェンのクライベィビーだった。
俺の教祖と崇めていたトニー・アイオミ先生が、ワウでは無く「ペダル・フェイザー」を使っていると知りどっちを買うか死ぬほど迷った。
珍しい系ではマクソンの「ステレオボックス」なんかも買った。
これは1入力で、アウトが2つあり、それぞれのアウトから2台のアンプに繋いでスイッチを踏むと音が交互に入れ替わるって「だけ」のエフェクターなんだけど、ギターソロのクライマックスでこいつに2台のアンプを繋いで音を左右に飛ばすと凄く劇的な幻想感が得られた。

当時のNo.01はフロントがDiMarzioファット・ストラト、リアがデフォルトのフェンダー・シングルコイルだったが、パワー不足からのハウリングとノイズが凄いので、リアピックアップをDiMarzioのSuper Distortionに交換する。
アームはノーマルのシンクロナイズ・トレモロにビッグバーを付けたのを使っていた。
 
H.M.N#1はリハーサルを開始して間もなく「デモテープでも録音しよう」という事になり、アメリカ村のスタジオに出かけて店員さんに話すと即その場でオープンリールのレコーダーを持ってきてくれて録音が始まった。
多重録音では無く、全員が「いっせのせ」で演奏したのをミキサーで纏めるだけだから、誰かがミスをすると最初からやり直しだった。
当時はバック先録音で歌後入れでは無く、歌も同時に録音だった。
俺と久保がボーカルを担当したが、失敗して何度もやり直している内に疲れて声がガタガタになってしまった。

録音した曲はウリ先生が大爆発されているスコーピオンズの「Fly to the Rainbow」で、もちろんTokyo Tapesバージョンのコピーだ。
2トラックの「いっせのせ」とは言え、沢山のマイクを立てた本格的なレコーディングなんて初めてだから、何が何だか判らないし、巨大なエフェクター・ボードを足下に置き、勝手が違うレンタルのアンプを鳴らして何度も何度もジミヘンするのは厳しかった。
とにかくハウリングやノイズは当たり前の世界で、ファズを使って限界までブーストさせたギターをコントロールするのが誠意一杯の録音だった。
全員がヒイヒイ言いながら頑張って、ようやく完成したのは、その時の俺達の演奏レベル以外の何ものでもなく「本格的に録音したところで録音の精度が上がるだけで、やっている事以上のモノにはならない」という当たり前の事を思い知った。

しかし、完成させた達成感みたいなのは得られて、以後HMN#1は爆音トリオバンドとしてライブ活動に進出する事になる。
もちろん当時の俺の格好はウリ先生の真似で赤のフレイヤーのジーンズに15cmヒールの「ロンドン・ブーツ」というど真ん中のオールドスタイルだった…確かロンブーは新宿の靴屋さんから通販で買ったと思う…ホントはジャラジャラとエスニックなアクセサリーも一杯身につけたかったけどエフェクター購入で金が無かった。

やがて、H.M.N#1はコンテストや大阪市内のライブハウスに出演する。
初ライブは活動拠点だったアメリカ村にある小さなライブハウスだった。

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記念すべきH.M.N#1の初ライブ!

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ライブ後店の人に音がでか過ぎると怒られたが、馬の耳に念仏だった

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アンプはフェンダーのツイン2台をステレオで使い、左右に音を飛ばしている

その後バンドは、ギターソロに飽きた俺の、猫の目の様に変わる音楽的嗜好で、ブラック・サバス方向のヘヴィーネスアプローチの方向に転換し、ボーカリストを探すことになる。

(Vol.04に続く)

YKバンド/洛陽(吉田拓郎)

 ■Guitar//Vocal/N.Kubo ■Guitar/Chorus/Y.Yokoyama

 


ステージにあったパイプ椅子に座って演奏した。

マイクやPAは無く、生ギターに生声。

足元に置いたラジカセでの録音。

Heave Metal Noize#1デモ・テープ/Fly to The Rainbow(Scorpions)

■Guitar/Vocal/Y.Yokoyama ■Bass/Vocal/N.Kubo ■Drums/N.Morimoto


大阪アメリカ村「UncleSam」スタジオでオープンリール2chを使っての歌、演奏同時録音。

ミキサーは社長の柴田氏が担当。

ライブ・ブッキング用として作成、非売品。

 所々でギターの音がガチャンというノイズと同時に劇変するのは、当時はまだマスタースイッチ等でループ回路を作る発想が無く、演奏しながら次に出す音を作っていてファズのモードなどが切り替わるから。

当時のエフェクターは「ガチャンコ・スイッチ」と呼ばれ、On/Off時に踏み込みだけでノイズが出た。

しかしウリの「馬の嘶き」サウンドは、古いエフェクターで無ければ再現出来ないと思う。