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伴天連 [My guitar & band history]

Vol.02-No1ギターとの出会い[イベント]

 

何とか県立普通科の高校に入学した俺は、早速クラスメイトとバンドを結成した。

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高校の学生証に貼る写真

リーダー不在で、とりあえずスタジオに入って大きな音を出すのが目的と言えば目的みたいな仲間の集まりだった。
ドラムはその時始めてホンモノのドラムセットを叩く奴、もう1人のギターは単なるお調子者、ベースは巨大な野球部の坊主頭、ボーカルは音楽を聴くのが好きって仲間の集まりだった。
課題のコピー曲も思いつきのバラバラな選曲で、皆下手だから最後まで演奏できる曲など無く、何度も途中でストップしていたが、とにかく大きな音が出せるだけで楽しかった。

高校へ通うのは、大半は禁じられていたバイクで通ったが、一応電車通学もしており、途中で近鉄からJRに乗り換える為に、一度下車する王寺という駅の前にあるビルの中に楽器屋があった。
そこは俺たち高校生バンドには聖地の様な場所で、色とりどりのギターがズラリと並んでいた。
学校の帰りに仲間とその楽器屋に入り浸って、色んなギターを手にとって弾いたり、若い店員さんと話すのが珠玉の時間だった。

この楽器屋に出入りするようになって、俺の機材の知識も増え、エフェクターなども「ローランド・ビーバー」などを購入した。

店の棚に並べてあるギターは国産品で、俺たちの様なコ汚い高校生でもアンプに繋いで試奏させてくれた。
しかし、当時の俺たちの神だったリッチー・ブラックモアが使っていた本物のストラトは、ガキが触れない様にガラスのショーケースに飾られていた。
俺たちは、まるでニューヨークの黒人の子供がショーケースの中のトランペットを見る様に、ガラスにへばりついて羨望の眼差しで眺めては、値札を見て溜息をついていた。

ある時バンドの練習にスタジオに行くと、遅刻では無いのに既に演奏が始まっていて、俺のポジションに別のギターが居た。
俺はメンバーにクビになった理由を聞くと「お前の持っているギターが格好悪いねん」と言われた…俺はションボリと、そのまま帰宅した。

母親がショゲている俺に訳を聞いたので、俺はありのままを伝えた。
俺の話を聞いた母親は「何やそれ!」と、「どんなギターやったらええねん!」と怒っていたので、「それは楽器屋のガラスケースの中にある…」と言うと、その場で楽器屋に行くことになった…こうして俺は、全校生徒のギター弾きの憧れの的を手にした。
それがNo1ギターだ。

買った時には保証書などが付いていたと思う。
しかし、そういうのに全く興味が無いので何処かに行ってしまった…シリアルナンバーも今となっては不明で、間違いなく言えるのは70年代中ごろに作られたギターということ以外は不明。
初号ギターは、もう磨り減ってガタが来て限界だったから、新品のギターは凄く弾きやすかった。

ある時楽器屋でDiMarzioの「ファット・ストラト」がとても良いと聞き、最初はリアにマウントするがブライトさが消えたので、フロントにマウントする。

当時はリアはギンギンのトレブリーなのが好みで、ロイ・ブキャナンやローウェル・ジョージのサウンドが好きだった。

サスティーンを得るためにジャック部分に「ALEMBIC・STRATOBLASTER」を取り付けた。

もう嬉しくて毎日弾いていた。
この頃に部屋で練習するアンプも30センチスピーカーをマウントした「アリアプロ2」の30ワットのトランジスタ・アンプになり、かなり豪華な音が出るようになっていた。

伴天連

その時考えられる最強のギターを手にした俺は、クビになった経緯があった為、学校内でメンバーを集めることに興味を無くし、学内の活動は期間限定の文化祭シーズンだけで、他の学校の連中と音を出すようになった。

大和郡山市にある楽器屋さんのメンバー募集の張り紙が主な情報源で、知り合った連中には近くにあった高専の人が多かった。

セッションなどで次々と知り合いが増え、次第に好みの合う連中が集まり「伴天連」という名前のバンドが出来た。
好みが合うと言っても、細かい事を言うだけの技量も知識も無かったので、俺はハードな音が出ていれば文句は無かったが、実際はウエストコースト系のコピーが多かった。

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ジャック部にALEMBIC・STRATOBLASTERを取り付け、フロント・ピックアップをDiMarzio「ファット・ストラト」に交換している

使っていたスタジオは、法隆寺の文化教室の地下スタジオ。
しかし、今このバンドの写真を見ても、俺が奈良という限られた範囲のハンディーの中で集めた選りすぐりだけあって、全員ホンモノの楽器を持っているのが凄い。

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左から、松下(ドラム)俺、山田(ベース)川上(ボーカル)桂(ギター)

このバンドは以後俺が東京に移住するまで、メンバーが入れ替わりながらも存在し、最後の方はボーカル不在となりフュージョンなどを演奏していたが、活動規模は奈良内での不定期なリハーサルを行う、コピーバンドの域を出なかった。

高校の頃は、学校の中の仲間とはブリティッシュハードロックのパープルやレインボウ、学外の伴天連ではウエストコースト系をやり、当時は特にこれでなきゃダメという拘りは皆無だった。

この頃は強烈にメンバーを引っ張れるリーダーが見あたらず、伴天連が奇跡的に誕生したものの、他の活動は一度きりのセッションや自然消滅を繰り返していた。

俺は伴天連と平行して、オリジナル曲で本格的にライブ活動するバンドの結成を目指した。

(VOL.03に続く)