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British Steele [My guitar & band history]

Vol.05-夢との遭遇[るんるん]


当時俺の行きつけの楽器屋さんは大阪アメリカ村にあったお店だったけど、消耗品である弦やピックなどは地元奈良県は王寺の駅前ビルにあった楽器屋さんで買っていた。
今はどうか知らないが、当時奈良県には楽器屋も少ないし、もちろんネット情報も無い時代だから、皆楽器屋さんに入り浸りローカルな噂やバンド情報などを仕入れていた。

ある日弦を買いに地元の楽器屋に行くと顔見知りがいて、そいつらから奈良県でドリームチームの様なバンドが結成された事を知る。
ドラムが上手いのはどこそこ高校の誰それで、ボーカルで凄いのは…って、極ローカルな話題なんだけど、そういう話題が大好きな奴って居るよね?…何処のバンドの誰それが抜けて何処に加入したとかって話しを生き甲斐の様に語る奴が…。

その時も顔見知りが熱心に語るドリームチームに関心は無かったどころか「どうせ奈良県の連中でしょ?」と馬鹿にしていた。
しかし、そのバンドのリーダーの石田とは過去に「Noise」と名付けたバンドで、一緒にツインリードでライブもやった事があった。

それから暫くして、バッタリ石田と街で出くわし、お互いの近況報告なんかを交わしているうちに「一緒に対バンでライブをやらないか?」と誘われた。
俺はH.M.Nで大阪のライブハウス中心に活動していたので「胸を貸してやる」って感じで余裕で引き受けた。

場所は大和郡山の楽器屋の3Fにあるホールだった。
ライブ当日はH.M.Nと彼等だけの出演で、当然俺達がトリを務め、彼等は前座という形でリハーサルが進行、出順と逆のリハーサルで俺達は自分たちのリハを終え「お手並み拝見」とばかりに客席に座り彼等のリハを見学していた…。

しかし、彼等が演奏を始めた瞬間に俺は座っていた椅子から滑り落ちそうな衝撃を受けた!
その時彼等が演奏していたのは全て海外のハードロック・バンドのコピーだったけど演奏は、当時の俺が自分のバンドで再現するのが夢の様なことをアッサリとやっていた。

彼らは、リハーサル開始の数秒で、俺がそれまで地道にやってきたバンドでの全てを吹き飛ばした。
天狗だった俺の鼻っ柱が根本で折れた。

この日、それまでリーダーの俺が余裕な態度なので、H.M.Nのメンバーも皆でかい態度でリハを見ていたが、俺は彼等の演奏を聴いて腰が抜けたが、他のメンバーは彼らの演奏を見た後も危機感を全く感じず態度が変わらなかったのが凄く残念だった。
俺は動揺しながらも何とかライブをこなしたが、こんなに凄いバンドがあるなら「もうバンドを辞めよう」って思った…どう頑張ってもそのバンド級のメンバーを集めるのは無理だと思った。

バンドを続けるなら方法は只一つ、俺が彼等のバンドに加入するしか無いと考え、その後4人編成だったそのバンドに俺を入れてツインリードバンドにしないか?と打診してみた。
意外にあっさりと「ツインリードバンドも悪くないな」と言うことで、俺の中では既に「メンバーになることが夢」になっていたBritish Steel(以下BS)のオーディションを受けさせて貰える事になった。

オーディション当日、俺は課題曲を懸命に弾いたんだろうけど良く覚えていない。
後にも先にもギターを持って緊張したのは、あの時だけだ。

無事オーディションに合格して夢が叶ったが、恐ろしく真面目なBSのメンバーは、合格で一緒にやることを俺の部屋まで知らせに来てくれた。

その時に、始めて石田以外のメンバーとアレコレ話した。

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初期BSの頃の新野(ドラム/左)と小林(ベース/右)

夢が叶った俺は、早速コピーしか演奏していなかったBSにオリジナル曲を持ち込み、H.M.Nで得たノウハウを使い大阪のライブハウスに進出して行く事になる。

British Steel

そのバンドには、当時俺が理想と思う全てが存在した…1つだけ足りないモノがあるとすれば、それは俺の力量だと思った。

しかし、特に慌てたり殊更力むことなく、俺はBSのメンバーとして楽しみ、熱中した…今思えばBSにワンランクレベルが低い俺を受け入れてくれる度量があったんだろう。

BSに加入した俺は、まずNo1ギターの改造に着手する事から始めた…これはもう短期間で考えられる限りの事をやった。

H.M.Nの相棒舟山とはツインリードと言っても2本のギターがハモる事は少なかったが、石田とはハモりに力を入れたかったので、後から加入した俺が石田のギターサウンドに合わせることにした。

当時、ストラトにハンバッカーをマウントしたギターなどカスタムショップ以外では発売されていなくて、俺はリアにハンバッカーをマウントしているのが自慢だったが、石田は既にピックガードを取り替えてフロント、リアにハンバッカーをマウントしていた。

石田は俺のマクソンD&S 2より一世代古い「トーンのツマミが小さい」同じのを使用しており、 ピックアップは両方ともDiMarzioのSuper2をマウントしていたので、俺もリアをSuper2に変えた。

また、石田が22フレットのネックを使っていたので、俺もSCHECTER製のネックに取り替えた…このネックは極太の裏が丸い形のスモールヘッドで凄く弾きにくく、気に入らなかったが他に22フレットのネックは見あたらなかったので使っていた。

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BS加入直後のNo1 ネックを22フレットに交換、リアピックアップはDiMarzioのSuper2に交換

また、石田と一緒に同じ色の同じギターを買った…アリア・プロ2のオリジナル変形ギターでステージで使うとカッコ良いと思って買ったが、結果2人同時で使うことはなかった。

俺はこの時始めてバンドでの、特に2本のギターの音量バランスを意識した。

例えば、俺と石田が交互にギターソロを弾くとして、お互いのソロをPA任せにせず自分たちでブーストさせる方法を採用した。

この方法はH.M.N#1で舟山とも行っていたが、当時使っていたエレクトロ・ハーモニクス社製のブースターはガチャンコスイッチでスイッチノイズが酷く、石田と一緒に同じイコライザーを購入した。

この時に石田とは「同じピックアップ」「同じアンプ」「同じディストーション」「同じブーズター」「同じ弦」で統一した。

石田のサウンドの好みは、俺よりヒステリックな高音だったけど、彼には様々な事で影響を受けた…逆に俺から石田への注文はリアピックアップ一辺倒で弾くので、フロントも多用して欲しい事位だった。

それまでの経験で、ツインリードの場合ギターソロなどの「出る」所で相棒のギターとのバランスが悪いとストレスに感じたので、可能な限り知恵を絞った…石田も同じくツインの厳しさを知っていたので、凄く協力的だった…振り返ると多くのギターとツインリードをやってきたが、ここまで完璧に合わせたのはこの時が最初で最後で、それ以後俺の中での「ツインリード」はこの時の方法論やイメージがデフォルトとなっていて、以後誰とツインリード・ギターを組んでも物足りなさを感じた…そういう意味では石田は俺にとってギターの先生だったし、信頼できる最高の相棒だった。

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俺と石田のツインリードは当時の俺には完璧だった

俺がBSに加入した当初は、地味なスタジオでのリハーサルに明け暮れた…特にライブをやらなくても何の問題も無かった…次回のスタジオで演奏するコピー曲を決めるとかが、主なミーティングの題材だったと思う。

使ったスタジオは、「伴天連」と同じ地元の「法隆寺文化スタジオ」だった。

恐らくBSが解散しなければ、俺は今でも奈良でギターを弾いていたかもしれない…BSの解散後、俺がバンド活動を続け、東京でMargeLitchを結成したのも「もう一度BSの様なバンドがやりたい」という一心からだった…それほどBSは俺の中では完璧なバンドだった。

その後俺にとってのバンドは単なる1つの趣味を超えてライフワークみたいになるが、それはBSのおかげというか、そのせいだと思っている。

ノンビリとスタジオ練習に明け暮れたBSだったが、やがてライブ・ブッキング用に大阪のスタジオでデモ・テープを録音する。

俺が加入して最初のライブは、地元大和郡山で行った。

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5オクターブ・ボイスの中井が出すウルトラ・ハイトーンはBS最大の武器だった!

その後BSは大阪梅田のライブハウス「ポップ・コーン」に出演する事が決まり、そのライブの前に皆で着る服を揃えようって話しになった。

「ダブル」のライダース革ジャンを全員同じモノで揃える事に決まり、全員で三宮の高架下に買いに出かけた。
その後、阪神淡路大震災で無くなったらしいけど、当時革製品と言えば神戸三宮のガード下で、同じ様なお店がズラーっと並んでいた。
梅田のライブハウス「ポップコーン」の楽屋で全員同じ革ジャンを着たら、何か別の人間のような特別な気分になれた。

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大阪梅田「ポップコーン」の楽屋でのBS 左から石田(ギター)、小林(ベース)、俺、中井(ボーカル)、新野(ドラム)

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大阪梅田ポップコーンでのBS

俺は自分の力量がメンバーの中で一番劣っているのを知っていたので、バンドに曲を作る事で貢献するしか無いと思い、BSはオリジナル曲制作に勢力をつぎ込んだ。

俺は、BS解散後も渡り歩いたバンドの先々で演奏することになった数々の曲を作っていった。
当時はカセットテープと2台のデッキを使った多重録音したのをメンバーに渡し、カセットを走らせながら「ここはこんな感じ」と各パートに口述で俺のアイデアを伝えていた。

BSのテーマソング「STEELER」など、バンドの骨格になる曲から始めて、次第にテクニカルな楽曲に着手した。

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ライブでのステージ衣装もメタリックな方向で統一した

BSは大阪のライブハウスに進出して行った。

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中途半端なメタルバンドをなぎ倒して突き進んだ

それはまさに快進撃の連続だった。

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大阪ミナミにあったライブハウス「夢屋」で演奏するBS

大阪ミナミの「夢屋」に出演した前日、記録的な巨大台風の上陸で関西は大災害となり、リーダーの石田の家が川に流され、バンドどころでは無くなり脱退。

ピンチを迎えたBSは4人編成となり後任メンバーを捜してLIVEを続ける事になるが、俺はあくまでも5人編成で続けることが前提だった。

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最強のドリーム・バンドは台風にやられて瓦解した

全てのオリジナル曲はツインリードを前提に作ったので、完璧な俺と石田のツインを再現できるギターなど見つかるはずもなく、リーダー不在となったBSは消化試合な数本のライブの後、あっけなく解散する。

俺はこのバンドで作曲の楽しさというか、曲を作った充実を教わった。

想い出すのは…ある時…それまでいとも簡単にハードルを乗り越えてきたBSに不協和音が起きた。

俺が「LOST WORLD」という曲を書いたとき、バンドのリハーサルで問題が起きた。
俺は後で知ったが、この曲はメンバーにテープを渡したときから不評だったらしく、深刻な問題になっていたらしい。
リハーサルでも、演奏が噛み合わず、俺は「何かシックリ来ないな」と思いながら演奏していた。
実際俺の頭の中では、完璧にBSにフィットしているんだけど、「頭の中」と「実演奏」には差があるのかも知れないと、自分の感覚を疑った…。

グダグダのリハーサルが終わると、珍しくファミリー・レストランに移動して本格的にミーティングをする事になった。
俺は、始めてBSのメンバー全員から「この曲は出来ない」と言われた。
しかし、俺は自分の頭の中では完璧に仕上がっており、バンドが曲を再現出来ていないのが問題だと思っていたので「とりあえずマトモに演奏しないでボツは納得が行かない!」と頑張った…それだけ「LOST WORLD」には入れ込んで作った自信があった。

揉めた原因は、既に数曲作っていたから、作曲〜曲完成の流れが出来ていて、それまでの曲に対する各メンバーへの丁寧な解説が疎かになっていた事だった。
俺はとりあえずもう一度カセットテープにキチンと入れてくると言って別れた…俺の作曲での始めての躓きだった。

…それからBSが解散し…年月が流れ…ある時「BS同窓会」が行われた。

多くの連中とバンドやセッションをしたけど、BSの連中とは再会するだけでは無く、スタジオに入って音を出したかった。
この時既にベースの小林は関東に就職していたので、全員が揃う事は叶わなかったがH.M.N #1の久保が手伝ってくれて、「BS同窓会」をスタジオで行った。
楽しい時間はあっと言う間に過ぎ…「後一曲、何やる?」という時間になった。
俺も「何やろうかな?」と思案していると、俺以外の連中が一斉に「LOST WORLD!」と叫んだ…いつの間にか、BSのメンバーの中で「LOST WORLD」は代表曲になっていた事に、この時始めて知った…それまで俺がこの曲を「やりたい」と言い張ったから仕方なく付き合ってくれていたと思いこんでいたが、この時程嬉しかった事は無い…恐らく一生忘れないだろう。

BSは俺にとって様々な試行錯誤を許してくれた学校だったと思う。

(Vol.06に続く)

Come On/Krokus

 


■Vocal/H.Nakai ■Guitar/Y.Yokoyama ■Guitar/S.Ishida ■Bass/N.Kobayashi ■Drums/S.Sinno

大阪アメリカ村「UncleSam」スタジオでオープンリール2chを使っての歌と演奏同時の一発録音。演奏前の打ち合わせからのノーカット版。ミキサーはUncleSam社長の柴田氏が担当。ライブ・ブッキング用として作成、非売品。