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高校生の時の音楽-03 [バンド関係]

この季節になると思い出すのが学生の頃の文化祭
今回は、記憶を辿り、高校時代の演奏について回想してみる[るんるん]

(前回からの続き)

高校2年の文化祭。
この年は、祭り好きが多かった俺のクラスが異常に盛り上がっており、クラスの催し物が「ライブ喫茶」に決まり、出し物のバンド演奏に俺もギターで借り出された…つまりメインステージで演奏するレインボーバンドとツェッペリンバンドと3つ掛け持っていた。
俺の高校の文化祭は、他の高校と大差無い盛り上がりだったと思う…何もやらないで教室が休憩室になっているクラスもあった…でも、俺のクラスは体育祭と文化祭は大爆発していた。

クラスのバンドは皆で意見を出しあって選んだ歌謡曲を演奏していた。
クラスメイトの多数決で歌謡曲を演奏することに決まった。
今の物真似タレントがやる程本格的では無いが、物真似を加味した歌謡曲バンドだった。
ラジオやテレビで出たばかりの新曲なんかも積極的に取り上げていたから、歌詞や譜面が無いので苦労したのを覚えている。

文化祭のかなり前から…何処の学校でも同じだろうけど、教室の後ろの棚の上には、誰の物とも判らないボロボロになったフォークギターや弦の切れたエレキが数本転がっていて、そういうのを使って放課後教室に残って練習していた…今思えばメチャクチャ真面目だったが…当時から練習嫌いの俺だけは早く家に帰りたかった。
不思議なことに、当時は出るのが少し恥ずかしかったクラスバンドでの演奏の方が、今では楽しい記憶として残っている。

ま、何処の学校も同じだろうけど、PA業者が入るメイン・ステージと違い、普段机を並べる教室にアンプやドラムなどを運び入れて臨時ステージを作り、窓に暗幕を張って飾り付けをすると、一気に文化祭模擬店の雰囲気が出た。
コンクリート製の教室での演奏で、出し物が歌謡曲という事で、俺は自宅から練習用のアンプをバイクで運んだ。
当時自宅で使っていた練習用アンプは、30ワットのアリアプロ2のトランジスタアンプで、30センチのスピーカーをマウントしていたので音量は充分間に合った。

物真似は曲に合わせて3人の男子学生が交代でボーカルを務めた…記憶がある…どうせ歌謡ポップスをやるなら女子が歌ってピンクレディーなんかをやりたかったが、却下されたのは残念だった。

皆祭り好きでなり切って歌っていた。
この事を回想すると、教室の後ろの棚の上にいつも転がっている「ギタークラブ」から無断で持ってきたボロボロのガットギターを想い出す…。
ま、イメージでは俺の高校での3年間は、灰色の膜に覆われた冴えない時間という感じなんだけど、こうして改めて回想してみるとアレコレと青春していたんだなと驚く。

2年○組バンドの演奏 世良公則&ツイストで「あんたのバラード」

3年になると、学級編成が「就職組」と「私立文系進学組」「理科系国公立進学組」の3つに分かれた。
分けられたクラスでは、それぞれ教科書も違い、習う科目も違った。
就職組は楽しい最後の高校生活を満喫、文系進学組みは日本史、理数系は化学とか数3とかだった。

俺は当時エレクトロニクス・エンジニアになりたかったので、理科系のクラスを選んだ。
理数系はたった1クラスだけで、女子は3人だけで男子校みたいだった。
何となく大学に行きたくなった俺のモチベーションは、大学の軽音楽部に入部することだった。
それまでの愉快な仲間が多かったクラスから殺風景な教室に入り、一応全学年中のエリート達が集まるクラスという感じで、ど真ん中で一年間受験勉強という雰囲気だった。

2年の時の友人たちとは次第に疎遠になり、俺は「チャート式数1」やら通称シケ単などを購入、全く興味の無い微分積分の数式や、化学、物理などを暗記する日々が続いた…。

やがて秋が来て文化祭シーズンになり、俺は全学年中最も小規模な歌謡曲中心のコピーバンドで高校では最後のライブをやった。

残念ながら、この時は録音もしなかった…というのも、俺は既に学外の連中とバンド活動をしていてわざわざ文化祭に出なくてもライブが出来る環境を持っていたので、臨時で編成して劣悪な教室でのリハで文化祭を目指すという短期スパンのイベントには興味が無くなっていた。

羨ましかったのは、その時後輩達がKISSのコピーを本格的にやっていた…メイクや衣装も頑張っていて、「雷神」で血を吐いたり、最後に「ブラックダイヤモンド」で膨大な紙ふぶきを降らせていた…俺は力なく笑いながらそれを羨望の眼差しで見ていた…。



学校内のバンドと言えば、強烈に覚えている事がある。

俺は高校1、2年の時、選択科目は音楽の授業を選んでいた…他の選択に何があったか?は覚えていない。
高2の時、音楽の授業を担当した先生…俺は尊敬する教師しか「先生」と呼ばない…その人は教師になったばかりの新人の若い男の先生だった。
俺たち田舎モノに音楽なんて芸術を教えても不毛なのに、その若い先生はやる気満々だった。
あるとき、先生は俺たちに向かって「何でも良い、どんなのでも良いから作曲して来い」と宿題を出した。
曲がダメなら歌詞だけでも良いと言っていた。

俺は早速五線紙を買って来て、自宅の部屋のピアノでピアノソナタを作曲した…今なら交響曲くらい書くが、その時はそれが目一杯だった。
それは、生意気に知る限りの知識をつぎ込んだ当時の俺の最高の力作だった。
完成した譜面を先生に曲を渡すと、即目の前でピアノで流暢に弾いてくれた。
先生のピアノがメチャクチャ上手かったので、俺が作った曲がとても素晴らしく聴こえた…。
先生は、俺の作品を他のクラスの時間でも「この学校にこれだけやる奴がいる」と紹介してくれた。
それは、その後の俺の作曲に対してどれほど自信になった事か…これぞ教育だと思う。

その先生が次に出した課題は「誰とでも良いから、最低2人以上でグループを組んで演奏しろ」だった。
俺は早速クラスメイトとバンドを結成して、演奏する事にした。
その時、クラスで目立たない連中は可哀相だった。
特に楽器が出来るわけでもなく…そもそも楽器すら持っていない彼らはたまたま選択科目の中から適当に音楽の授業を選んだだけだった…。
その時、同級生の普段は目立たないデブが手を挙げ、そういう可哀相な連中を一手に集めた。
デブの父親はプロのジャズ・ミュージシャンだったが、息子のデブは何か楽器が出来る訳ではなかった。

発表の日まで、音楽の授業時間は、防音の効いた音楽教室でそれぞれのグループが分かれて楽器を練習していた。

俺たちはやる曲も早々に決まり、余裕だった。
一方デブ一派は縦笛やハーモニカなど小学校で使っていた様な楽器を持ち寄り、大人数の中でデブがリーダーシップをとり何やら熱心に練習していた。

…やがて発表の日が来た。
女子はエレクトーンやピアノを使ってポップスを演奏したり、男子もフォークギターを数人で弾いたりと…発表が続いた。
俺たちはブラスバンド部からアンプやドラムセットを借り、無難にそつなく演奏した。
余裕でトップでゴールした気分だった!

俺たちの出番が終わり、後はデブ達だけになった。
「さて、クズ共は何を聞かせてくれるのかな?」と、俺は椅子に座りふんぞり返っていた。

同級生なのに名前さえうろ覚えな「こんな奴うちの組にいたっけ?」という冴えない連中が教室の前に一列に並んだ。
人数が思ったより多かったせいか、一体何が始まるんだ?という雰囲気で教室内が静まり返った。
デブは何の変哲も無い肌色の縦笛を取り出し、吹き始めた…。
他の連中もそれに合わせてハーモニカやトライアングルなど、地味な楽器を鳴らし始めた。
その途端にマジックが起きた!
一人一人のパートは、誰でも演奏できる簡単なフレーズなんだけど、全体が音を出すと素晴らしいハーモニーの効果が産まれていた!…その瞬間に俺はデブが何をやりたかったかを理解した。

デブがわざわざ多くの人数を集めた事も理解できた。
実際何かの罰ゲームの様な態度で出てきた連中が全員素晴らしく見えた!
それまでど真ん中でデブ達を舐めていたが、「負けた!」と思った。
俺は、楽器のパフォーマンスや個人の力量が無くても、楽曲や演奏が素晴らしければカッコ良いんだとデブに教えられた気がした。

奈良というド田舎の、別に専門学校では無いただの県立普通化の冴えない高校だったけど、唯一この音楽の授業だけは俺に大きな影響を与えてくれた…もう名前も忘れてしまったけど、音楽の先生には感謝している。
俺が3年に進級した時、その先生は他校に移ってしまった。
理由は教科書を教えず、生徒にバンド演奏などをさせていた事が原因だと噂で聞いた。
…俺はその時「俺は運が良かった」と心底思った。
人生で、素晴らしい師に出会う確率は、腐りきった日本の教育現場では宝くじに当たるみたいなモノだ。

何も判らなかった俺に、音楽の楽しさと奥の深さを教えてくれた先生が、その後どんな授業をされたのか?は判らない…。

しかし、ここに先生のおかげで音楽が人生の友になった教え子が確実に生きているのだ。