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DEARER [My guitar & band history]

Vol.09-ギタースタイルの完成[るんるん]

ハードプログレバンドのアル・カン・シェルのリーダー山口が脱退したので解散という事になり、残ったメンバー達が引き続きバンドを続けようという事になり「DEARER」と改名した。
バンド名はギターの田中が発案し、第四期DeepPurpleの大ファンの俺が激しく同意して決まった。

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この時のオリジナルメンバーはVo・G俺、G.田中、Ba.野村、Dr.中井で、俺はボーカルからギターに代わる事になり、とりあえず正式なメンバーが見つかるまで、俺がボーカルを兼任する事でバンドはスタートした。

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結成後暫くはボーカルを捜しながらの新曲のリハーサルが続いた。

俺のギターはH.M.Nの頃のペンタトニック系と敢えて別の奏法を意識するようになり、それまであまり積極的に使わなかった足鍵盤もライブでの標準機材として使うようになった。

DEARERはバンドの音楽性をそれまでのハードプログレからAcceptタイプのパワーメタルと位置づけ、ワイルドな力強いサウンドを目指した。
ベースの野村はVベースからB.C.RichのMOCKINGBIRDに持ち替えた。

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俺も長いバンドキャリアで才能豊かなメンバーと知り合ったが、野村はその中でも群を抜いた才能の持ち主だった

中井のドラムもラック式のスタンドにバスドラムを取り付けて背後には巨大なドラを立てていた。

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ドラムの中井と、渋谷の居酒屋にて

俺はギターを弾くことに没頭している時期で、曲も次々と作っていった。

まずは「まともな音源を作って、それを元にボーカルを捜そう」という事になり、ファーストデモテープの制作に取りかかった。
プログレ系バンドのブラックペイジなどを手がけたJEWELの里氏のプロデュースで、奈良の三条通にあったアコヤ楽器のスタジオで録音した。

2曲録って、1曲はインスト曲で、もう1曲は俺が歌った。
俺は調子に乗って結構なハイトーンで歌ったので、益々ボーカル探しが難航する事になった。

そんな時、ベースの野村の紹介で、ハイトーンボーカルの志賀がやってきた。
志賀はグラハム・ボネットタイプの歌い方で、あっと言う間にバンドと噛み合った。
志賀は元々ギターを弾いていたので、ギターに関して理解があった…例えば、ギターを判らないボーカルは、ライブでギターソロを弾いている時にアドリブでワアワア喚き出したりするが、志賀は俺が長いギターソロを弾いても、その意味を理解してくれて凄くやりやすかった。

加入のタイミングも良くて、丁度俺がギターのリハビリを終えてもう1人のギターの田中との呼吸が合いだした頃だった。

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俺と田中のツインリード

「44マグナム」、「スネイクチャーマー」等でキャリア豊富な田中からは、多くの事を教わった。
後からギターで加入した形になる俺は、極力田中の負担にならないよう、歪み系のエフェクターなどは俺が田中に合わせる形で音を揃えた。
時期によって多少の入れ替えはあったが、この時の機材の基本セットは初期MargeLitchまで継続する。

俺と田中はギターのスタイルは違ったが、音色やツインリードで合わせる技巧のバランスは取れていたと思う。

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大阪梅田キャンディーホール

バンドは理想的なボーカルの加入で活性化し、初ライブを目指した。

俺はH.M.N以後、ギターはメインで使っていたホワイトのストラト以外の大半を手放していたので、ライブまでにスペア用のギターを手に入れる必要があった。

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奇跡的に残ったアリアのギターは、その後蛇皮を貼って写真撮影専用ギターとなった

そんなある日、志賀が「俺はもう弾かないので」と、ストラトを買わないか?と言ってきた。

ギターを見もしないで即答で「買う!」と言うと、「音が出ないので」と、破格の5千円で譲ってくれた…それがSquierのストラトだった…それは、その後の俺の運命を決めたギターとの出会いだった。

早速家に持ち帰って部品交換も兼ねてリペアした。
志賀は木工加工が得意で、ネックを自分でスキャロップに改造しており、ピックアップがH-S-Sに改造してあったので、そのままリアにDiMarzioのSuperDistortion、センターはダミーで、フロントは最初から付いていたビルローレンスのシングルをそのまま使った。
ブリッジはシンクロナイズド・トレモロ・ユニットで極太のビッグアームが付いていた。

ボディーの材質がアッシュで凄く重いギターだったが、劇硬の音が出て、一発鳴らして即気に入った。
ただ、色がナチュラルなのがどうかな?と思っていると、BritishSteeleの時の相棒の石田が遊びに来て「良い色だ!」と誉めてくれたので、ナントナクそうかなぁ〜と思うようになった。

後にNo-02ストラトと名付けたこのギターと出会わなければ、その後の俺のバンドキャリアは大きく変わっていたと思う。
以後、初期MLまではライブもレコーディングも、重要な所はこのギターで弾いている。

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No-02ストラト登場

当時の使用ギターは、ホワイトのストラトはH.M.N時代からの据え置きのままトリプルハンバッカーで、リアとフロント共にDiMarzioのSuper2、センターはDiMarzioのSuperDistortion。

機材は、ギター→Maxonのワイヤレス→BossのVolumeペダル→Bossのオクターバー→MaxonのSonicDistortion→MaxonのMasterSwitch↑コルグのSignalDelay↓GuyatoneのChorus→IUラックMaxonの31バンドEQ→1UラックMaxonのハーモナイザー→IUラックMaxonのデジタルディレイ→Gアンプ

Gアンプは、基本はGuyatoneのPHILIP CONCERT-5000のヘッドを2発ステレオで鳴らしていた。
ヘッド2発のキャビネット2発の4段積みで使っていた。
細かく書けば、ドライ用に古い5000-1を使っていて、エフェクト用が後発の5000-2で、1と2はインプットの位置が反対側にある。

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俺の後方にあるのがGuyatoneのPHILIP CONCERT5000の4段積み(ヘッドは上が5000-2で下が5000-1)

足鍵盤はこの頃からアナログシンセのチューニングが狂うのが嫌になり、KORGのMPK-130+KORGのEX-800(ポリ800の音源のみ版)というMIDI鍵盤とデジタル音源に切り替えた。

DEARERの記念すべき初ライブは、森ノ宮青少年大ホールだった。

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高校時代から使っているNo-01ストラトを弾く俺

バンドは活気と笑いに満ちあふれ、意気揚々と前進するはずだった…しかしその後、志賀が家庭の事情で脱退する事になった。
よく「メンバーの脱退は音楽性云々と言うが、本当は喧嘩だ」と聞くし、事実その通りなんだけど、この時は違った…俺は理想のボーカルが去ってしまって消沈した。
志賀の脱退の穴は大きすぎた。

その後も何人もボーカルの人達とオーディションで合わせたけど、一緒にやりたいなと思った人はいなかった。
バンドは完全に失速し「このままやっていてもダメそうだし、解散するか?」という話になっていた。

そんなある日、ドラムの中井と一緒に、中井の知り合いのベースさんの家に遊びに行った。
俺達がボーカルを捜していると言うと、何故かいきなりその人のバンドで歌っているボーカルを紹介してくれた。

新曲は出来ていたので、早速新加入の佐伯とライブブッキング用にセカンド・デモテープの制作に取りかかった。
しかし、リハーサルの段階から、良くも悪くもハッキリした問題がある事が鮮明になった。
この時、俺はDEARERをギター中心のバンドに変えようと思った…居ないと困るメンバーに活動を左右されるのでは無く、俺個人が頑張れば何とかなる体制を模索した。

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レッドのボディーにBLACKのピックガードというブラッド・ギルスモデルを弾く俺

その結果、出音や音楽性、曲中の楽器が占めるバランスが大きく崩れ、相棒の田中が去っていった。

本当はこの時点で、DEARERは解散だったと思う…しかし、バンドはツインリード・ギター編成を捨て、4人編成のまま俺が進めようとしていた方向性でデモ・テープ3を制作した。

この時は、オープンリールの8トラックのMTRを自分で動かしてミキシングも自分達で行った。
俺は録音というモノがどういうモノなのかを学び、その経験は初期MargeLitchの完全自主制作のデモ・テープ作りに大いに役立った。

バンドは腕利きマネージャーのおかげでライブは順調で、九州や東京方面のツアーが続いた。

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九州博多にて

脱退した田中の代わりに、一時キーボードの浩太郎が加入し、彼の部屋でライブ用のSEをMTRで録音した…それが後に「MageLich(MargeLitchでは無い)」という曲のイントロに流用する事になる。

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田中が去った後も、俺はバンドに色々アイデアを出し、ライブにも力を入れてみたが、ギターの音をデカくしても「音楽の本質的な部分」に決定的な欠陥は隠しきれず、「この先幾ら頑張っても先はない」と思い始める。

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マルチトラックレコーディングなど、DEARERの活動の中で学ぶことは一通り経験したと感じ、丁度妹がアメリカに住んでいたので、俺もアメリカにでも行こうかなと、その前に東京にも住んでみたいなと…そんな感じで、そろそろDEARERを辞めようかなと思っているところに「レコード盤」を作る話が入ってきた。
当時既にCDはあったけど、まだレコード盤が主流だった。

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その頃俺はDEARERで東京にツアーに行くときはBritishSteele〜H.M.N#2で行動を共にしたドラマーの新野が埼玉の川越に就職していたので、ライブ後はメンバーと行動せず単独で川越に遊びに行っていて、そこで東京でバンドをやる為の移住計画の話を進めていた。
この頃、新野は東京の住宅情報誌などを奈良の俺の家に送ってくれたりで極力してくれており、俺のDEARER脱退は気まぐれな俺の気分次第という状態だった。

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この時俺は、東京でバンド活動をやるのに、本格的なレコーディングは経験しておいて損はないと思い、レコードが完成するまでバンドの脱退を遅らせる事にした。
俺はこの録音の時に始めて、その後嫌と言う程回すことになるスチューダーの24チャンネル・マルチでの録音を経験した。

結果からいえば、レコード制作も時間の無駄以外の何でも無かった…ただそこにあったのは、豪華な録音機材と優秀なプロのエンジニアによる素晴らしい録音で…それまでより更に精密に録音できるという当たり前の事でしか無く、バンドが抱える「問題」がデモテープよりも更に綺麗に録音されただけだった。

録音が終了した後は「レコ発記念ツアー」に付き合わざるを得ず、仕方なく全国のライブハウスを回ったが、悪いときには悪いことが重なるモノで、肝心のレコード盤は完成するのが遅れてしまい、ツアー最終日の大阪ライブ後にやっと間に合った。

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俺は持っていないのでネット上から拝借しました

ライブ後、急造の物販コーナーで全曲俺が作曲のレコード盤を段ボール箱から出して売っているマネージャーとメンバーに辞めることを告げ、その場を去った。
最後のレコ発ツアーが罰ゲームの様に精神的に厳しかったので、まさに「労あって益少なし」そのものだった。

俺のやりたかった事って何だったのか?と、何とも不思議な光景の最後だった…



実はこの後も延々続くんだけど、長くなるので省略

今振り返れば、長いブランクから再びギターを弾くようになったのはDEARERのおかげだし、ギターの音作りや弾き方、録音技術など、多くの有意義な事を学ぶ、俺には「最も重要な時期」だったと思う。
DEARER以前は何処か他人事の様な「数多い趣味の中の1つ」的な取り組み方だったが、俺はこのバンドから本格的にギターにのめり込んだ。
だからH.M.Nの最後と違ったのは、バンドに本気で取り組んだ実績というか、経験を積んで知識も増えたので、「次に組むバンドはこうしよう」「同じ失敗は繰り返さない」という明確な次のバンドへのイメージが出来たのが最大の違いであり、収穫だったと思う。

ただ脱退という最悪の結末に陥ったのは「成り立たないモノを成り立たせようとした」事に敗因があったと思う。


…その後、DEARERを脱退した俺は即東京に移住したのでは無く、約2ヶ月程それまでの人脈の全てを使って大阪での活動の可能性を模索していた。
しかし当時の大阪は有名な老舗ライブハウスやホールが立て続けに事故で閉店し、それに連動するかのように多くのバンドの活動停止や解散、引退が続き、何か…異常事態って感じだった。

俺が大阪でのバンド活動で、最後に入ったリハーサルは、兵庫県の神崎川駅近くのスタジオだった。
その時のギターの相棒は元DEARERの田中だった。
俺は再び田中と合流し、アルカンシェルタイプのハードプログレ系と、DEARERの様なパワーメタルを融合させたような音楽性のバンド結成を目指そうとしていたが、残念ながらメンバーが見つからず、その構想はそれから4ヶ月後、東京でMargeLitchという新たなバンドの結成で実現することになる。

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初期MLのトリオ時代はDEARERで出来なかった事の再現だった

それから何年か後…田中は新バンドを結成し…MargeLitchのツアー先の大阪で対バンになった。

ライブの後に行われた、道頓堀の居酒屋での爆発の様な打ち上げは…俺もこれまで何百回と打ち上げに出たけど、あの日の楽しさは一生忘れることはないだろう、その場に居た全員が腹の底から笑い転げ、のたうち回っていた。
酔いつぶれてクラゲの様にフニャフニャになったMLのメンバーを引きずって、フラフラになりながら機材車を停めている長堀通りの駐車場まで歩き、西名阪高速を俺の運転で当時の奈良の実家まで戻ったんだが…運転した記憶が全く無かった。


…俺が大阪の街でのバンド活動の最後に結成したDEARERというバンドは、個人的にはあの時期の俺に必要なバンドだったと思う。
結成当初はもの凄く練習もして、毎回新しい発見の連続で…俺がDEARERに在籍した期間の前半は膨大な珠玉の笑いの宝庫だったけど、後半は時間とエネルギーの無駄で、その「落差」があり得ないほど激し過ぎた。

DEARER…実に奇妙な悪夢のようなバンドだったのだ。