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Arcenciel  [My guitar & band history]

Vol.08-ボーカリストで復帰[イベント]

H.M.N#2崩壊後、俺はバンドをやめてバイクにのめり込んでいた。

この時期、俺は複数のツーリングチームに所属し、近畿を中心に北陸や中部地方の道をバイクで走破していた。

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バイク仲間達とのツーリング

大きいバイクから小さいのまで、多くのバイクに乗っていた。

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あらゆる仲間達と色んな所に走りに行った…この写真は…恐らく京都嵐山だと思う

ブリティッシュ・スティールのリーダー石田もバンドを辞めてバイクに傾倒していて、会えばバイクの話ばかりしていた。

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左から2人目の整備工みたいな格好しているのが石田

ある日、石田が「楽器屋に付き合え」と言ってきて、東大阪のある楽器屋に着いていった。
石田は古いエフェクターが壊れ、それが修理できるかを店員さんと話していた。

石田が話している間、退屈なので店内を散策して奥に行くとリハーサル・スタジオがあった。
スタジオのロビーの壁一面にビッシリとメンバー募集のチラシが貼られていて、俺はボーっとそれらを眺めていた。

「へぇ〜、まだバンドなんて奇特なことをしておられる方々が大勢いらっしゃるんですね」ってなもんだった。

あるド派手なチラシが目に入った。
カラーのマジックで色とりどりにOZZYだのジューダスだの俺の好きなバンドの名前が書き殴られていて「ボーカル募集!」と書かれていた。
「面白そうだな…カラオケ気分で歌ってみるか」と、軽い気持ちでチラシを引っぱがしてポケットに入れた。
ギターで参加するなら曲を覚えたり楽器を練習しなきゃならないが、歌ならただ身体だけ行けば良いので長期ブランク関係無い。

当時の俺は単身ボーカルとして気軽にセッションなどで歌っていた。

この時も、再びバンドをやるとか、そういう思い入れや計算は無く、単純に歌を歌うのが好きだったので興味があった。

家に帰ってチラシに書かれている電話番号に掛けてみた…今みたいにメールなんて無い時代で、個人情報なんて関係ない牧歌的な時代だったから、チラシには大抵募集者の名前と自宅の番号が書かれていた。

掛けた電話に出た男から「そのチラシ何処で見ましたか?」と聞かれた。
事情を話すと思いだしたらしく…それは随分前に張ったチラシらしかった。
「…という事は、もうボーカル決まっているんですね?ではさようなら」と電話を切ろうとすると「ちょっと待って下さい!」と返事が返ってきた。

「俺が持ち帰ったチラシ」の時にボーカルが決まって加入したが、それから数ヶ月経った今はそのボーカルが抜けそうなので新しいチラシを作ろうと考えていたところだったらしい。
…という経緯で、彼らと会うために天王寺に出かけた。

阿倍野の待ち合わせ場所に行くと、ギンギンのメタルファッションの長髪の男2人組が待っていた。
俺達は会った瞬間からうち解け、気が付けばお互い意味もなく笑い出していた…よく判らないがクスグッタイというか楽しかった。

喫茶店に入り4時間近く笑っていた。
ヘビースモーカーが3人集まったので、山盛りになったタバコが灰皿の中で煙りを出して燃えていた。

2人から出たバンドに置ける様々な取り決めに問題は無く、スンナリと俺の加入が決まった。

俺が加入する前の彼らは、やりたい音楽性があったらしいが、メンバーの入れ替わりが激しく主にコピーの課題曲を演奏する辺りをウロウロ低迷していた。
俺は彼らとバンドの音楽性やオリジナル曲の構想などを話し合った。

ギターでリーダーの山口は彼なりのポリシーを持っていて、楽器や機材にも問題は感じなかった。

バンド仲間と久しぶりに心の底から笑った俺は「こいつらとなら、またやっても良いかな」と思い始めていた。

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リーダーの山口

ベースの野村は、それまでの俺のバンドキャリアではダントツに上手い技巧派で、野村との出会いでバンド復帰を考えるようになった。
以後、大阪を離れて東京に移住するまで野村とは全ての行動を共にする。

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Vベースと一番初期のグヤトーンの200ワットのベースアンプの組み合わせは、結構良い音を出していた

野村の好む細かいリズムをユニゾンで会わせるためにジャズドラム・コンクールの全国大会で優勝経験のある三好がドラムに決定した。

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イアン・ペイス、クライヴ・バーなど、何でも叩けた

細いジャズドラム用のスティックから太いのに持ち替えた三好と、ギブソンのVベースを弾く野村のリズム隊は強烈だった。

こうしてH.M.N#2終了から約半年の長期ブランクを経て、俺はボーカリストとしてバンドに復帰した。

L'Arc-en-Ciel (アル・カン・シェル)

このバンドに参加した最初は、ただバンドをバックに好きな曲をカラオケ気分で歌いたくなっただけの軽い動機だったが、野村のベースが俺をやる気にさせてくれた。
しかし、当時はまだH,M,N#2崩壊の記憶が生々しく残っており、ギターを弾こうという気は全く起きなかった。

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俺が加入した直後のアル・カン・シェル…俺が写真に写って無いのは、俺がシャッターを切っているから…カメラのレンズを向けるだけで即こういうポーズになる愉快な連中だった

曲は俺がバンドに加入した時点で既に数曲あり、それに俺が新しく歌メロを入れる事から始めた。

とりあえずワンステージこなせるだけの曲を作ろうという事になり、バンドの音楽性を話し合った。
ラッシュなどの複雑なユニゾンを基本にしたハード・プログレ系という大枠が決まった。

この頃に俺が作った曲はハードプログレ仕立ての大作が多く、後に初期MLで演奏している曲も多い。

この時の俺のボーカリストとしての拘りは特になく、興味はハイトーンを出す事位だった。
当時の俺はHR/HMのボーカルならハイトーン・ボーカルでないとダメで、所属したバンドのボーカリスト全員にそれを求めたが、BSの中井以外は高域が出なかったり、音程が悪かったりで失望の連続だった。

ギターを弾きながら横で必死に音程を上げようと青筋を立てて叫ぶボーカリストを見て「ハイトーンを出すのがそんなに難しいのか?」といつも心の中で思っていた。
そういうストレスが積もりに積もっての反動という部分が大きかった…ハイトーンなんて大げさに言わなくても誰にでも…素人の俺なんかでも簡単に出来るって事を証明したかった。

俺が不必要なまでに高い音域やシャウトを連発した結果、アンバランスな曲になっていたが、当時の俺はそういうのは全く気にしなかった…「文句あれば同じ音域で歌ってから言え!」だった。


アル・カン・シェルでの作曲は、自分の気分や思いつきでどうにでも歌メロディーを変更できるので凄く面白かった。

歌う事に関しては、バンドに合わせて歌う通常のリハーサル以外に練習は全く何もしなかった。
ギターなら普段から自宅で地道に練習したりしなければ弾けないが、歌は普段事前に練習しなくても良いのでバンド活動が格段に楽だった。
またギターだと楽器や機材を新製品が出れば買ったりお金が掛かったが、ボーカルは何も買わなくても済むので経済的にも助かった。

アル・カン・シェルは某音楽事務所に所属しているバンドだったので専属マネージャーもついていたし、事務所系列のリハーサルスタジオは無料で使い放題、ライブは大きなホールが中心で、競演バンドも当時の大物ばかりという、俺が「カラオケ気分」な割には活動の環境はとても恵まれていた。

場数を踏めという事で、アル・カン・シェルは俺の加入間もない頃、まだ演奏できる曲が数曲しか無い時からコンテスト出演などの「プチライブ」を頻繁に行っていて、マネージャーからアレコレダメだしをされたけど、俺は事務所の意見は誰にでも言える事ばかりで話の内容に才能を感じなかったので、大半は聞き流していた。
「それが出来ていれば、とっくに売れてるっちゅーねん!」ってな事を腹の中で思っていた。

アル・カン・シェルの録音データは非常に少なく、俺の手元には俺が加入して間もない頃に出たコンテストみたいなライブのテイクしか存在しない。
このライブが一体何のコンテストで、何処で演奏したのか?も、今となっては忘れてしまって判らない。
音も、PAからのライン録音でバランスも悪いが、これしかないという意味では貴重だと思うので、紹介する。

当時は「音のデカさでは何処のバンドにも負けない」というのがあったので、このコンテストライブも爆音でやったんだと思う…「やっと終わってくれたか!」という疲れ切った司会者のウンザリしたMCが最後に入っているのが笑える。



G.山口 B.野村 V.横山 D.三好

☆音源:カセットテープ (PAからのライン録音)☆録音日時及び場所は不明



アル・カン・シェルでの俺のボーカルで特筆すべきは、オリジナルの音響システムだと思う。
丁度残っていたテープがPAからのライン録音なので聞いて貰えればよく判ると思うが、リバーブやディレイのスイッチングをボーカリストがステージ上で歌いながらリモートコントロールするという、画期的な事をやっている。
もちろん客席から、操作は見えない。

バンドは次第に活動範囲を広げていった。
ライブが忙しくなった頃、三好が実家の仕事を引き継ぐ為に脱退した。

俺達はドラム探しに奔走したが、思いの外難航した。

やがて、人の紹介で中井が加入した。
中井は三好とは真逆の典型的なパワードラマーで、ワンバスドラムでヴィニー・アピスが好きでSlingerlandのドラムセットを叩いていた。

バンドは細かく複雑なユニゾンを減らし、ハードロック色を強調した音楽性になりライブを目指してリハーサルを繰り返していた。

リハーサルを繰り返していたある時、中井がもう1人ギターで加入させてツインリード体制にしないか?と提案し、元44マグナムの田中の加入が決定した。
田中は44マグナムではベースを弾いていたが、本職はギターだった。

5人編成で数本ライブをやった頃から山口と田中の力量に差がありすぎてバランスが崩れ、リーダーの山口が脱退した。

俺は田中が加入した時から、田中のギターを聴いて再びギターが弾きたくなった。
田中は永くギターから離れていた俺に最新の機材やトレンドを紹介してくれ、それらはとても魅力的だった。

俺は山口の脱退を機にボーカルからギターに転向したいとバンドに提案した。
俺がギターに代わる事はメンバーからも了承され、バンドはリーダーの山口が脱退したのでバンド名も変え、新しくボーカリストを捜す事になり、この時点でアル・カン・シェルでの活動は終了となった。


このバンドで強烈に覚えている事は数え切れないほどあるが、田中が加入して間がない頃、合宿でリハーサルをやろうということになった。
誰が言い出したかは忘れたが、最初は取り留めもない馬鹿話だった。

しかし、何故か話は立ち消えにならず、真夏の猛暑日の早朝から京都の木津川の河原まで車でアンプや楽器を運び演奏した。

アル・カン・シェルは残念ながら山口の脱退で終わってしまったが、俺は今でもこのバンドに感謝している。

…あの頃、もし彼らと出会わなければ、再びギターを持つ事は無かった。
彼らと会えば、いつも別れるまで常に笑っていた。
その笑いが、H,M,N#2での地獄のようなトラウマを癒し、消し去ってくれて、俺に再びバンドの楽しさや作曲の楽しさを復活させてくれた。

俺はこのバンドではギターは弾かなかったけど、今でもこのバンドで作った曲は大好きだ。

(続くのだ)