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再結成H.M.N [My guitar & band history]

Vol.07-全国展開[るんるん]

 

活動場所を大阪に戻した俺はセッションやDrowsy等のバンドに所属しながら、新バンド結成を模索していた。

ある時、仲間とセッションで使ったスタジオに行って驚いた。
始めて大阪本町にあるスタジオを使ったが、そこにあったギターアンプを鳴らして腰が抜けた。
それまで、俺のお気に入りは50ワット位の小さなビルトインタイプのMesa Boogieで、チューブでJBLの30センチのスピーカーを1発搭載していたが、恐ろしくワイドで太い音が出た。

しかし、本町のスタジオでGuyatoneのFLIP Concert-5000というアンプを鳴らして「これだ!」と思った。
とにかく喉から手が出るほど探していた音が出る理想的なアンプだった。

当時は「憧れの外タレ」のほぼ全てが使っているMarshallがダントツで人気だったけど、これは何度も書いているが当時のピンスイッチのMarshallは、ヒステリックにか細くハウるだけで俺には使えず、レコーディングなどでは見栄えのしない小さなMesa Boogieを使っていた。
Mesa Boogieは真空管で、ウルトラ・ハイが「音が詰まる」のが唯一の欠点で、とても気に入っていたが、ライブで使える程パワーが無いのが難点だった。

しかしグヤトーンのFLIPは、音が分厚くエフェクトの乗りも抜群で、何より歪みが素晴らしかった。

本当は使えなくてもハッタリでMarshallを使えば、変な音しか出せなくてもそれを持ち込むだけで自慢だったんだろうけど、ギターやアンプは見栄えより、本人が思い通りに使いこなせなければ話にならないと考え購入した。

H.M.N#2

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H.M.Nの再結成(以下H.M.N#2)に向けて、元H.M.N#1からは、他バンドでロックンロール系のバンドに加入していたベースの久保にヘルプを依頼し、当時街で大流行していたニュー・ウェイヴと呼ばれたテクノ系バンドに参加していたギターの舟山が加入、ドラムはBSの新野が加入、ボーカリスト捜しを始めた。

久保とはBS時代も何度か彼の所属していたバンドでギターを弾いて遊んだし、舟山はバンド仲間以前にバイク仲間だった。

俺は舟山とツインリードのタッグを再結成する為、お互いの家で膨大な時間の打ち合わせをしていた。
舟山はアメリカで買ったフェンダーUSAのムスタングとヤマハのSFという24フレットのギターをメインで使っていた。

テクノにドップリだった舟山は、俺に新しいシンセサイザーやエフェクトを見せてくれ、最新の技術情報を教えてくれた。

俺は曲を作り、バンドはボーカルを捜しながらリハーサルに入った。

ボーカリスト探しは難航した。
数人セッションした時点で、俺はDrowsyで歌っていた松山に打診し快諾を得、メンバーが揃った。
ベースの久保が自分のバンドが多忙の為に別れ、松山の知り合いが手伝うことになった。

バンドは元H.M.Nのボーカルだったカツアキがマネージャーとして参加、新体制は出来上がった。

とりあえずデモ・テープを作ろうという事になり、新曲制作〜リハーサルを繰り返した。

デモ・テープ録音寸前に突然ヘルプのベースと連絡が取れなくなり、俺がバンド仲間の津村からリッケンバッカーを借りて急遽多重録音でベースも兼任し「ファースト・デモ」が完成する。
録音後に決まっていた初ライブは野外ライブで、久保が手伝ってくれてなんとか乗り切った。

新ベースに藤橋が加入し、H.M.N#2の体制が整う。

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藤橋(exヴァージンキラー)が加入した頃のH.M.N#2 大阪 アメリカ村 BAHAMA


大阪でライブを行いながら「セカンド・デモ」を制作し、東京方面へのツアー進出を計画した。

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左から藤橋、松山、新野、舟山、俺 因みに新野が履いているロンブーは俺のもの

当時大阪から東京に行ってライブをやるインディーズ・バンドは殆ど無かった時代だから、ライブのブッキングも苦労した。

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当時のチラシ用写真

現場を知らなければ話にならないので「とりあえず東京に行ってみよう」と、地理や道路状況を見るのを兼ね「ブッキングツアー」を行った…ブッキングツアーと言えば聞こえがよいが、つまり遊びに行った。

デモテープやプロフィールを用意して、俺と舟山とマネージャー、スタッフの4人が乗用車に乗り、東京代々木にあるつのだ☆ひろさんの事務所を目指した。

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さっそく原宿で営業活動に励むブッキング隊

詳細や経緯は省略させて頂くが、この「ブッキングツアー」では、日本屈指のスーパードラマーであるソウル透さんに大変お世話になった。
透さんがいなければ、間違いなく今の俺は無かった。
お忙しい中、訳の判らない俺達を親切に相手にして頂き、都心部にある数々の主要なライブハウスを紹介して頂いた。

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ソウル透さんと代々木のピザ屋「トニー」で…俺は納豆が喰えなかったが、透さんに脅されて納豆ピザを喰ってから納豆が好物になった

以後H.M.Nは大阪〜東京の東海道間を、恐ろしい本数のライブツアーで行き来することになった。

ベースの藤橋が脱退し、Drowsyでベースを弾いていた深川が加入、バンドは恐ろしい勢いでツアーを重ねた。
深川はフェンダーのプレシジョン・ベースと、ミュージックマンをマーシャルで鳴らしていた。

俺はメインギターはホワイトのストラトを3ハムバッカーに改造。
エフェクターはギター→ジェン・クライベイビー→マクソンD&S2→エレクトロハーモニクス・パワーブースター→マクソン・フランジャー→ボス・フェイザー→マクソン・アナログディレイ(据え置きタイプ)→アンプ…というセッティングだった。

…当時の俺達は、新宿ロフト、渋谷屋根裏などに演ていた。

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記念すべき東京初上陸(新宿ロフト)


始めて東京のライブハウスに出た時…その日出演したバンドは皆ジャンルが違ったんだけど、客席前列は黒いドレスの女の子軍団が占拠していた。
皆、大阪からわざわざ東京まで応援に来てくれて、他ジャンルの普通の格好のお客の中で異様な輝きを放っていた。
何もかもが始めての東京でのライブだったけど、大阪弁が飛び交う客席が凄く心強かったのを覚えている。
何か俺なんかよりファンの方が熱心だったと思う。

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メインのストラトは22フレット、トリプルハムバッカーに改造していた

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東京での初ステージ(新宿ロフト)

ロフトでは透さんに俺が会いたいと言ったのを本人に伝えてくれていて、当時日本のハードロックでは最高峰の山本キヨジさんがわざわざ観に来てくれた。

しかし東京の街はまだ本格的なジャパメタ・ブームが到来する前で、東京の街で最も目立っていたのは、パンク系のバンドだった。

正直、東京のHR/HM系バンドとの対決に期待していたんだけど、覚えているのは屋根裏でご一緒させていただいたマイケル・ハマーさんがいた「カラー」というバンド位で、後は他ジャンルか古めのブルース色の濃いハードロックが多かった。 

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そんな東京でも、神楽坂のEXPLOSIONだけはHR/HM専門で頑張っていた…「メタル・フォース」というイベントに始めて出た「同級生」は名古屋のティルトさんだった…最初はティルトが出番は俺達の後だったんだけど、彼らが遅刻したのを店長の藤沢さんが凄く怒って、急遽出順が変更になって、俺達が後になったのを覚えている…怒った藤沢さんはメチャ怖かった。

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メタル・フォースでのH.M.N#2 楽屋はナンとステージの真上で暑かった!

東海道をツアーして回る日々が続いたが、やがて舟山が就職で脱退し、バンドは4人編成として活動を続けた。

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舟山淳と俺 横浜シェルガーデンのライブ後、その勢いで雨の中華街で暴れる俺と淳ちゃん

今振り返ると、俺はブリティッシュ・スティールの再現という夢を追いかけていて、このバンドにもそれを求めたが、結果それは失敗だった。
もう少し音楽性を別方向で始めていれば、また違った結果があったと思うが…いずれにせよ、俺は最初から最後まで「趣味」の範囲内で参加していた。

また、最大の問題点は俺の音楽やギターへの拘りだったと思う。
当時の俺はバンドよりも他の趣味に忙しく、片手間でバンドをやっており、何事に関しても真面目に考える事は無かった。

舟山が抜けて4人編成になった事で新しく曲も作ったが、忙しいライブスケジュールに追われる中でボコボコ新曲が出来るはずもなく、ツインリード仕様の曲を引き続き演奏せざるを得ず、中途半端な時期が続いた。
覚えているのは時間が無いのでツアー先のライブのリハで新曲を合わせて、本番でそれを演奏したりしていた。


ライブ・ツアーも最初の数回は見知らぬ土地での演奏に興味津々だったが数回で飽きてしまい、以後ツアーはマンネリになっていった。

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目が覚めるとそこが何処かも判らなかった

4人編成になった頃からジャパメタ・ブームが始まり、ギターサウンドにも新しいトレンドが出てきた。
ハードロックとは名ばかりで、ギターの音の歪みを押さえた「爽やか」な音が主流となり、近寄りがたい凶暴なイメージの「ヘヴィーメタル」から、格好は勇ましいが生身は只のお兄さんという「ヘビメタ」になっていった。

 

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時代は初期ジャパメタブームに突入した(京都磔磔の楽屋で魔女卵のミジーと)


俺の機材もツアーの酷使でグシャグシャになっていたので、4人編成を切っ掛けにエフェクターを一新した。
歪み系の心臓部は当時グヤトーンから発売されていた練習用のヘッドフォン・アンプで、ギターを差し込んでヘッドフォンで聴きながら練習が出来るモノで、使ってみると凄く爽やかだったので歪み系エフェクターとして使うようになった。

曲も、それまでの生真面目なハードロックから、受けを狙ったライブでのギミック中心の歌謡メタル系になっていったが、厄介な事に作曲者の俺はそういうポップなのも凄く気に入っていて、次第に勇ましいバンド名とは似ても似つかないバンドになって行った。

俺の作る曲に節操が無くなった事で、バンドはメンバーの音楽性で2つに別れ、俺は両方の嗜好に付き合った結果ポップス指向とハード指向が混在したハッキリしない音楽性になってしまう。

最後の半年は急激に4人編成での体制を整えた無理と、それまで飛ばしに飛ばしてきた疲れが蓄積されたのか、楽しいと思った記憶が全く無い。
やがて「趣味として全然楽しくない!」とバンドに対する情熱は冷め、H.M.N#2は急激に自然消滅に向かって失速した。

メンバーはそれぞれのバンドを結成、俺は高校時代から使っているホワイトのストラトだけを残し、他のギターは手放してバンドという趣味を放棄、バンド活動と平行して没頭していたバイク仲間との鈴鹿やツーリングに情熱を振り向けた。

しかし全くギターを弾かなくなったというのではなく、奈良で伴天連のメンバーとは気が向けばお互いの家を行き来したりして、主にLAのカントリー・ロックなどのコピー中心に時々スタジオで遊んでいたし、YKバンドの久保とフォークのデュオを復活させたり、地元の仲間達と楽しく遊んでいた。

Heave Metal Noize#2 デモ・テープ

曲名:Angel(セカンド・デモテープより)Vo松山 Gu横山・舟山 Ba藤橋 Dr新野

録音:大阪 今里Mサウンド(一発録音)

音源:カセット・テープ